生きているといつの間にか、もう絶対にあの瞬間には戻れないということを否が応でも痛感せざるをえなくなる。

 

例えば、別れた恋人を思ったり、亡くなった人を思ったり。

 

生きていると、もうこの人には会えないという人が何人も出てくる。当然、その人とはきらめくような時間を一緒に過ごしている。だから会いたいのだ。でも会えない。人生は複雑だ。

そんなとき僕は昔を思い出す。

その大切な人とは、お決まりの大切な場所と時間が必ずあってそこが頭に浮かぶ。

 

例えば、20代に付き合っていた彼女とは大学で知り合ったので、距離が離れていた。僕はバイクで3時間かけて彼女のところまで会いに行った。

 

3時間。夏の暑い日も、冬の寒い日も、彼女のことを考えてバイクにまたがっていた。当時の彼女を思い出すと、僕は当時のバイクにまたがって、冬の深夜の国道を走っている。

 

もう僕はその国道を何年も走っていないけど、なんだかまだあの頃の僕がその国道を今も走っているんじゃないかという気がすることがある。

 

たまたま僕の時間軸がずれてしまっただけで、実は彼女のことを考えて冬の国道をバイクで走っている彼こそが本当の主人公なのかもしれないと。

 

また亡くなった親友とは、僕は今も市立図書館の裏の駐車場で夜中にあーでもないこーでもないと話をしているんじゃないかと。

 

でも、もちろん彼らはもういない。次に彼らに会えるのはいつになるのだろう?

 

僕は、彼女と別れてからもずいぶん彼女にもう一度会いたいと思っていた。でもあるとき気づいた。もう会うことはできないし、会っても同じ人間じゃないんだと。

 

親友が死んでからも、僕はずっとあいつに会いたかった。何よりも声が聴きたかった。

 

でも、もうあいつの声は空気を揺らさない。

 

じゃあ、いつになったら僕は親友に会えるのだろう?あと40年は生きなければならないとしたら…。

 

そこで僕は圧倒的な時間の重みに押しつぶされそうになった。

 

なんて時間は重いんだろう。1時間つまらない仕事をしているだけでも耐えられなくなるっていうのに、あと40年くらいは僕は生きているかもしれないのだ。

 

40年。僕は少なくとも親友の声を聞くことはできないのだ。

 

愕然とした。

 

でも、僕は時間の重みに何としても耐えなければならないと思った。

 

そしてヒントは英語の中にあった。

 

英語を勉強している時間は、時間の重みを感じないのだ。

 

そして、僕は英語の勉強をしている間は、時間を短くすることができた。ビューんとひとっ飛びするように、僕の思考は駆け抜けてあっという間に時間が過ぎていく。

 

時間が軽かった。僕も軽くなったような気がした。

 

そうして僕は一層英語が好きになった。

 

人生は長い。会いたい人に会えない時間は長い。孤独だし、心はその重みに耐えられそうにない。

 

しかし、それに対抗する手段はあるのだ。その一つが英語だったのだ。